「熊本を襲った地震と津波から減災の手がかりを考えよう」【シリーズ1】
Date:2012/10/25
熊本でも過去に大きな地震や津波があった!(その4)
前回は、雲仙普賢岳の火山活動に伴って発生した地震による島原半島眉山山体崩壊によって発生した津波が熊本地方を急襲したところまでお話しました。今回はその続き、津波の規模と被害について話を進めてみます。
津波の遡上高
津波の遡上高とは、平常潮位から津波の到達した最大高のことをいいます。この津波による遡上高は最大で23mを越えます。それは被害の大きさと基本的に関係しますが、沿岸地形と居住地環境により増減が認められます。河内町では23.4m、三角町大田尾で22.5m、宇土市(上)網田で18m、その他、近津、塩屋、上松尾、宇土市長浜、下網田、戸口では10mを優にこえる津波遡上が認められています。一方長洲町では遡上高は平均6〜8mと10mを下回っていますが、人的被害や家屋被害は極めて甚大でした。低地に立地する集落は津波の流速や避難場所の問題から被害が大きくなったものと考えられます。
人的被害と家屋被害
家屋被害の主体は津波による流失損壊でした。2011年3月11日発生した東日本大震災時に映像記録された流出、損壊はみなさんの記憶にも新しいと思います。まさに根こそぎといった感があります。眉山崩壊による津波も、発生機序は異なっていてもその状況はまさに等質のものであったと推測できます。
先に述べたように長洲町の被害は甚大でした。この背景には当時の集落が標高4m以下の低地に多く立地し、襲来した津波に対し無抵抗にならざるを得なかったためと考えられます。流出家屋は長洲、平原、清源寺、上・下沖洲、塩屋の集落でほぼ全戸数が流出し、死者は1500名近くにのぼりました。
現熊本市北部の船津、河内、塩屋、近津地区の死者の総数は750名を超えます。この地域でも家屋はほぼ全滅であったと推定されています。同様の傾向は三角町や天草の白濤、須子などの地域にも認められ、狭い湾口で三角入り江の地形は、津波の波高をより高い場所まで運んだものと考えられます。一方、宇土市や三角町、天草における被害は船津や近津とは異なり比較的海岸線は開けていますが、長洲町同様低地に集落が密集していたことが災いしたものと考えられます。宇土市長浜、下網田、戸口のみで死者は1000名を数え、白川河口域の小島地区、緑川河口域に広がる川口地区も人的被害が大きい地域でした。河口域から河川に伴って遡上する津波は、遡上速度が速いばかりでなく堤防を越えて一気に多面的、拡散的に進展することは三陸を襲った3.11津波でも認められた現象です。低地に集落が立地していたこと、夜間に発生したこと、新月で月明かりもなく避難に窮したこと、あるいは、避難できる高台が近隣になかったことなども大きく影響したものと推測できます。
有明海を駆け抜けた津波は熊本県沿岸部に多くの教訓を残しました。被害の大きかった地域には「津波石」が設置され、将来にその悲劇を繰り返さぬ印を残したのです。
(つづく)